国産初のジェット旅客機MRJ(三菱リージョナルジェット)のチーフエンジニアとして大活躍されている、三菱航空機株式会社 岸 信夫取締役副社長執行役員。本学の卒業生だと知り、名古屋まで取材に伺いました!「とにかく真面目に勉強しました」という学生時代のこと、未経験のことに取り組むときに必要なこと、強い信念と努力でひとつひとつの夢を実現している岸さんの言葉を、ぜひご覧ください。

◆岸 信夫(きし のぶお)
三菱航空機株式会社 取締役副社長執行役員
三菱重工業株式会社 交通・輸送ドメインMRJ事業部長(兼務)

大阪府立大学工学部航空工学科卒業(昭和57年)

【職 歴】
昭和57年4月1日  三菱重工業株式会社入社 名古屋航空機製作所第2技術部配属
平成17年             同  社        先進技術実証機プロジェクトマネージャー
平成22年11月    三菱航空機株式会社
平成24年1月          同  社                MRJチーフエンジニア
平成25年1月            同  社              執行役員チーフエンジニア
平成25年7月            同  社              執行役員技術本部長兼チーフエンジニア

平成27年1月            同  社              副社長執行役員技術本部長兼チーフエンジニア
平成27年4月1日 三菱航空機株式会社     取締役副社長執行役員
兼 三菱重工業株式会社 交通・輸送ドメインMRJ事業部長(現職)

 

<Theme1:府大入学&在学中の思い出 編>

―大阪府立大学の印象について―
私が受験したときは、共通一次が始まる1年前でしたので、最後の(国立旧)一期校二期校と言われた時代で、航空宇宙工学を学べる大学の入学試験が全て同じ日でした。東京大学、名古屋大学、九州大学、大阪府立大学とあって、その中では一番府大が入りやすかったのですが、倍率が凄く高くて、16倍くらいだったと記憶しています。

弊社の中でも大阪府立大学工学部出身者の評価は高いです。なぜかと言うと、私より年齢が下の人はC日程や中期試験で受験していて入るのが難しいので、地道に努力しているというか、(第一希望の大学に行けず)ある意味ちょっとした挫折を味わっている人もいて、それがいい風に影響し、大学に入っても勉強し続けるのではないかと思います。
府大の大学院に行く人も、他の大学院に行く人も、一生懸命勉強していました。(航空の分野は)飛行機とかロケットとか楽しいことをやっているので、取り組みやすいというのもありますが、就職してからも、「優秀だと評価されているAさんは、岸さんの後輩ですね」と言われることが増えています。それは本当に府大の教育の成果だと思います。

今井理事―私も企業に行ったら、府大生は現場力と伸びしろで評価してくださいと言っています。―

―府大を受験した理由について―

府大を受験しようと思った当時、高校の同級生で府大に入りたいと言っていた友人がいて、「比較的入学しやすいし、入った後伸びしろがある、伸ばしてくれる」「学生が少なくて先生が多く、学ぶ環境として色んな設備がある」と言っていました。私は現役のとき名古屋大学を受験しましたが、浪人のときは名古屋大学か府大か最後まで悩んでいました。航空を学びたかったので、他にも幾つかの大学を検討しましたが、最後は学費が安いし、環境もいいし、親戚が関西にいるし、ということで府大に決めました。また、当時たまたま手に入れた工学部の進学ガイド本(進路の助言工学部/文研出版 1973年)の中で、大絶賛されていました。先生の博士取得率、先生の現役率(60歳以下の比率)、正規教員と学生の比率、大学院充足率等を比較している本がありました。これは後から判ったのですが、府大の機械工学の助教授の先生(楠井健先生)が書いた本でした(笑)けど正しかったですよ。飛行機、飛行機と言って浮かれて大学に入ってきても、飛行機を発展させていく苦労が出来ないとだめだとその本に書いてありました。
入試制度が変わり今は難しくなっていると思いますが、当時は比較的入学しやすく、伸びしろがある分野だと思い、ここしかないと思って選びました。今でも間違ってないと思います。一年に一回くらい府大に行っていますが、環境はほとんどかわってないですね。

―府大の環境について―
やっぱり周りの環境も大事ですよね、都会の大学は本当に勉強する環境なのだろうかとか、逆に周辺に何もなく大学だけというのはどうなのか、とか。府大は周辺に住んでおられる年配の方にとっても昔からなじみがあり、学生に対する温かい目があって、今でも変わっていない道がたくさんあり、何々荘とか自分が住んでいた下宿もそのままありました。
3年生のうちに単位が全て取れたので、4年次は暇でよく白鷺周辺で飲んでいました。定食や飲み屋も安いですし、そういう全体の環境が僕にとっては心地よくて、本当に良かったと思っています。ですので、大学から講師の依頼をいただくと本当に嬉しくて、今の学生にもがんばれと言えるし、できるだけ貢献したいと思っています。当時は大学の近くの中百舌鳥門にうどん屋さんがあって、夜食べようとすると、見ず知らずの人が「府大の学生か」と言ってビールをご馳走してくれたりしました。銭湯でも地域の人との交流がありましたよ。

中植―今でもありますね。この間ホームカミングデーのとき三菱重工の役員の方が隣に座られて、一緒にお酒を飲ませていただくということがありました。―

広報―大学時代に一番思い出に残っていることはなんですか?―

<先生との交流>
さきほどありましたけど、二回生のときに流れ学がおもしろくて一生懸命勉強していましたが、ある課題で配列の添え字を全部書き忘れ、先生のところにいったら、「100点だよ」と言われました。「そんなわけない、あそこ間違ってるし」と思いましたが「いいんだ、だいたい合っているから」と言ってくれた先生がいました。

広報―理解しているから100点ということですね。―

真面目に勉強していましたので、そういうことが伝わっていたのだと思います。あるとき熱力学の有名な先生が出した課題がどうしても解けなくて…。先生が忘れていたか、もしくは僕が聞き漏らしていて条件がひとつ足りなかったのです。レポートに回答不可、条件不足と書いて出しましたが、そのレポートも評価されました。テストの中身じゃなくて姿勢を評価してくれたのだと思います。質問もいっぱい行きましたね。我々は先生がそんなに見てくれていると思っていなかったですが、航空の先生と学生はほぼ同数くらいの比率でしたので、非常によく見てくれていましたね。あんまり細かなところを間違っているとか言わなかったですね。
あと、先生が本をくれましたね。先生の書棚から専門書とかの難しい本を取って、「読んどきなさいよ」と。多分2、3年生のときでした。そんな風に先生との交流が結構ありました。

中植―府大は先生との距離が近いですよね。道で会ってもよく元気かとか聞かれますし。全然知らない先生ですけど。―

多分先生は知っているんですよね。その後大学の規模はどんどん大きくなりましたけど、変わらない距離感がいいのでは。他にも当時は、府立の大学が集まって開催していた友好祭が盛んでした。強制されるのが嫌だったので、部活は入らなかったです。

広報―それだけ勉強されていたら部活動する時間がなかったかもしれませんね。―

1年生のときから結構勉強していましたね。予備校の先生が、「君たちはこの大学に入りたいと言って予備校まで入ってきて勉強しているのに、大学に入って勉強しなくなるというのはもったいない。みんな遊んでしまうけど勉強を続けなさい」と。その言葉があったので入学式が終わり、教科書をもらった後から、線形代数や化学も心理学も哲学も普通に勉強しました。一年の前期が終わったあと、みんな勉強していないので、自分がすごく成績がいいことに気づいて(笑)一回いい成績をとっちゃうとやめられないんですよ。

それから、3年生のときに飯田先生という、浪速大学(大阪府立大学の前身)に航空コースが出来た当初から教授として赴任され、工学部の学部長にもなっていた先生がいました。3年生のとき、その先生の定年退官の最終講義で、専門の流体力学ではなく、人生における大切なことということで、「うんどんこんかん」という話をしていました。「うんどんこんかん」というのは「運鈍根勘」で、人生を切り開くのは、運に恵まれること、また、鈍くさいくらいがいいこと、根性があるかどうか、勘が働くかどうか、ということをお話されていました。京都大学の先生による「勘の研究」という本があって、勘というのは経験に裏付けされて生じるもので、感覚の感ではないのだ、とか。か、今思えば、大学院進学をやめて三菱に就職しようと思ったのも勘が働いたわけですね。運も影響していますね。本当に先生との思い出はたくさんあります。

<友人との交流>
また、一晩中ずっと解いてやっとわかるような非線形微分方程式の課題が出たことがありました。朝、要領のよい友達が来て、「解けた?」といって写していくわけです。彼はとても要領が良くて、彼をすごく高く評価している先生がいましたね。普通の学生だとレポートは厚いほうがいいと自分の知らないことでも専門誌を見て写したりしますが、彼は賢くて、見たことだけ簡潔に書いたら、「このレポートは薄いけどエクセレント」と先生が褒めていました。また、図面、設計製図を書くのがすごく速くて、要領いいなぁと思っていたら、今ホンダでバイクを担当してがんばっています。同期で入ってくる友人もおもしろかったですね。
学費もそういえば一番安かったですね。高校や中学校行くより安いという噂がありました。当時国立大学より安くて、親の負担を考えて府大に行こうと考える学生とか、京都からわざわざ通っている学生とか、結構貧乏学生だけど真面目に勉強する学生が多かったですね。

中植―確かに今でも、学生も奨学金を自分で借りたりしてがんばっている学生が多い気がします。

<大学時代の過ごし方について>
やっぱり、自分のやりたいことを地道に実現するためには、努力しないといけません。なかなかできないですが。でも、少なくとも府大の学生さんたちは、公立大学で偏差値も高いし、もし第1志望の大学に入れなかったとしても、府大でどう自分の目標を実現するかということが大切だと思います。

中植―確かに、僕もですが他大学には絶対負けない、という反骨心みたいなものを持っている学生が多いです。

府大は伸ばしてくれますからね。あんまり反骨精神だとか君たちは第一志望の大学落ちたとかではなくて、勉強し続けるきっかけがプラス要素でもマイナス要素でもどっちでもいいですよね。

<Theme2社会人 編>

―大学をご卒業された後、三菱重工業株式会社に入社されていますが、就職されたきっかけなど、お聞かせください。―
私は57年の学卒ですが、それまでずっと東京大学の大学院に行くと決めていました。その当時は大学院への進学率が今ほど高くなく3割もないくらいで、30人入学して5人行くか行かないかという状況でした。院試験というのはまた入学試験とは難易度が異なりますし、東京大学の大学院に行くと、航空宇宙関連たとえばJAXAでもどこでも就職できるのではと思っていました。
また、当時一・二年生のうちから専門が始まっていたので、先ほどもお話した飯田先生という有名な先生が担当していた流れ学の授業を、二年生のときに受講しました。それがもう楽しくて、楽しくて!数学は難しくてわからなかったのですが、大学に入って飛行機っぽい学問をやりたいと思っていたので凄く熱中し、先生にもよく質問しました。2年生で先生のところに行く人は少なかったようで、「君は横浜なので、東京大学に行きなさい」と目をかけてくださいました。
でも、あるときふと就職説明会をのぞいたら、三菱重工の求人1名と書いてありました。真面目に勉強していて成績が良かったので、推薦をもらって行こうと思ったら行けるということがわかりました。それで、急転直下で大学院進学をやめると言ったら、みんな「えーっ」と驚きました。親も先生も、大学院行こうと言っていた5人くらいの仲間も。三菱重工に入ったのは飛行機に関わる仕事がしたかったからです。当時の三菱重工は、ロケット、民間ビジネスジェットMU-300、戦闘機は作っていて、旅客機は作っていませんでしたね。

―入社されてから、どのような経歴を辿り、三菱航空機株式会社でMRJの開発を担当されることになったのでしょうか?―

就職したら空気力学だとか流体などを取り扱う部署は東京大学卒の人の配属先というか、比較的多く配属される場所でしたので、私は装備設計というエンジンを艤装(ぎそう)するところに入りました。そこは学問より飛行機を飛ばすための実技に近いというか、本当に実力が問われるところでした。理論ではなく、大学病院の先生よりもエマージェンシーレスキューですね、すぐになおせる医者というイメージの技術者が求められていました。そこで長く、5~6年勤めた後、F16をベースにしたF2という戦闘機のチームでエンジン艤装を担当しました。当時上司があまりおらず若い人しかいなかったので、若い頃から仕事を任せられました。年を取ると心配ばかりがたって、短い橋でも渡れなくて、石橋をたたいて壊しちゃう人もいるわけですが、若いと「いいや、渡れないなら飛んじゃおう」という感じで出来ちゃうわけです。そうしているうちに、その分野では代表して喋れるようになり、そのうちに装備全体、次に戦闘機の能力向上を担当し、そこで将来戦闘機を担当している課の課長になれと急に言われました。そこは優秀な人たちが登竜門として通過するような課で、そこに抜擢されました。これは前例のないことでした。レスキューの医師が突然大学の第一外科教授になったようなことでしたから。でもなっちゃったらやるしかないわけです。そうなってくると一つひとつの技術力とかコミュニケーション能力とか状況把握能力とかそういった能力の勝負で、どこ出身とかは関係ありません。もともと、入社後、出身大学で扱いが異なることはほとんどないですし、学卒や高専卒、院卒というのも関係がありません。同期で入ったら、そこからみんなスタートです。

その課長としてずっと働いており、次はかつて「心神(しんしん)」と呼ばれていたX-2のプロジェクトマネージャーになりました。その後1年管理職をやったあとに三菱航空機株式会社に移りました。当時開発というといわゆる航空工学(空気力学、熱力学、材料力学など)が中心でしたが、今は、例えば化学でも複合材だとか色んなことが関係しますし、総合的な学問が必要になります。旧来どおりの学問ではなく、システム工学とか安全性工学とか型式証明とか、そういう学問を今後の大学はやっていかなくてはいけなくなると思います。

中植―MRJのプロジェクトで初めてのことをたくさん経験されていると思うのですが、僕がこれから社会に出たときに、未経験で何も知らない中で過ごしていかないといけないと思うのですが、どうやって経験不足を補えばよいかアドバイスをいただけないでしょうか。

初めてのことをするときは全部経験不足です。知識というのは勉強して積み重ねるものだから、そのときそのとき勉強していけばよいけど、経験を積むというのは会社に入ってからでないとできないことです。最初からみんな期待しているわけではないので、知識、勉強すべきことが勉強されているか、合理的にものごとを考えられるか、基礎的知識が蓄えられているか、それだけあれば初めてのことを実行する勇気があるかどうか、ってことだと思うんですね。先ほど言ったように橋を飛んじゃえと。MRJも初めてのことばかりですが、専門家や経験者にアドバイスを聞くとか、ボーイングOBの方にこういうときはどうしたらいいのかと聞いたりしますね。ところがその経験が20年前だと、今ある新しいレギュレーション(規則・ルール)のことやそれに対してどう対応すればよいのかが判らないことがあります。例えばMRJが初めて取り組む基準というのがあります。そうすると、全く未経験のことになるので、今までの人たちのことを聞いて自分たちで考えるしかありません。間違っちゃうかもしれないけど、間違ったら直したらいいんですよ。だから、経験はすぐに身につかないけど、合理的に考えることができれば大丈夫だと思いますよ。

広報-府大生に向けて一言メッセージをいただけるとしたらどんなことでしょうか?

自分のやりたいことがあると思うので、それを実現するためにはとにかくやっぱり真面目に勉強しろということかもしれませんね。人間関係を作ることも大事ですね。せっかく難しい大学に入っているのだから、それに応えてくれる先生とか学校の環境が地域も含めて整っているのだから。そうしたら「運鈍根勘」拓けるよということでしょうか。


<取材を終えて>
やっぱり府大の卒業生には素晴らしい方が多いと思いました。岸さんは何年も上の先輩ですが、お話を伺っていると、府大生っぽさが随所に感じられ、それは府大の先生方や周りの環境によるものが大きいことを実感しました。一番印象に残ったのは、若いと「いいや、渡れないなら飛んじゃおう」と思って何でもできてしまうという言葉です。安定志向と言われる学生には耳の痛い話ですが、挑戦してみたら案外うまくいくという励ましとして、僕もチャレンジしていきたいと思います。

 

【取材:中植貴之 (MICHITAKERs:工学研究科 博士前期課程1年)】
【取材日:2016年3月9日】※所属・学年は取材当時