多文化共生は、21世紀を生きる私たちにとって非常に大きなテーマです。かつて世界をわかりやすく分割していた“国家”や“地域”といった境界は、グローバル化によってきわめて曖昧なものになりました。社会的にも、経済的にも、そして文化的にも、私たちが異なる背景を持った社会や人々が交じり合う時代に生きています。しかしその一方、世界各地で繰り返されるテロや日本でも社会問題となっているヘイトスピーチなどに見られるエスノセントリズム(自民族中心主義)的主張も、その存在感を増しています。多様性への理解を深め、具体的な衝突をいかに解消するか――多文化共生に対する考察は、今後ますます重要になっていくのではないでしょうか。

今回紹介する「言語の社会システムA」は、言語の接触を題材に多文化共生について基本を学ぶとともに、多文化共生をめぐる諸問題について考えることを目的とした環境システム学類/社会共生科学課程の専門科目です。「言語の接触」とは、異なる言語を用いる社会が対峙することで互いに及ぼす影響であり、本科目では南米日系移民社会における日本語とポルトガル語・スペイン語の接触しついて注目します。教員は日本語学史、日本思想史が専門の山東功先生。この日の講義のテーマは「パラグアイの日系移民社会」です。

 

 

■山東 功

大阪府立大学21世紀科学研究機構教授、大学史編纂研究所所長/大阪大学大学院文学研究科博士後期課程修了、博士(文学)。大阪女子大学講師、大阪府立大学准教授を経て、2011年から現職。専門は日本語学、日本思想史、高等教育史。主な著書に『大学を学ぶ―大阪府立大学史への誘い―』『唱歌と国語』『日本語の観察者たち』、『ブラジル日系・沖縄系移民社会における言語接触』(共著)など。

 

 

遠くて近い、パラグアイという国

今日はパラグアイにおける日系移民についてのお話です。パラグアイという国は、みなさん馴染みがないかもしれませんし、日本のメディアで紹介される機会もあまりありません。でも実際には日本からの移民が少なからずいて、現在もその子孫たちとともに日系人社会を作っています。

 

パラグアイは南米の真ん中あたりに位置する内陸国で、広さは日本よりも少し広い40万平方キロ、その大部分が平地で、広大な原生林が広がっています。人口は685万人、民族的には、先住民であるグアラニー族とヨーロッパからの移民の混血が95%、純粋なグアラニー族も2%ほどいます。言語はスペイン語が中心ですがグアラニー語も公用語として認められていて、それらが微妙に混じり合って使われており、学校でも二言語教育が行われています。宗教は90%以上がカトリック。また電力のほぼ全てが自国の水力発電で賄われていて、「世界一エコな国」とも言われています。

 

そんなパラグアイの日系移民ですが、人数は約7000人、全人口のわずか0.1%に過ぎません。にも関わらず日系移民の存在感が大きいのは、彼らがパラグアイの発展に大きく貢献してきたという経緯があります。現在パラグアイ最大の農産物は大豆ですが、これは日本人の移住者たちが栽培を始めたものです。東日本大震災の際、パラグアイから被災地に支援物資として豆腐が送られたというニュースがありましたが、その背景には日本人の移民がパラグアイの農業発展に大きく貢献してきたことが関係しています。

 

 

闘いに翻弄されたパラグアイの歴史と日系移民

では、パラグアイの歴史について、日系移民のことも交えながら少し詳しくみていきましょう。

まずパラグアイがスペインの植民地支配から独立したのは1811年です。この頃、南米の周辺国も立て続けに独立を果たしていますが、やがて覇権争いが激しくなり、1864年にはパラグアイはアルゼンチン、ブラジル、ウルグアイの三国同盟と戦争が始まりました。この戦争は6年間続き、最終的にパラグアイは甚大な被害を被って敗戦します。開戦前に52万だった人口が21万人まで減少、若者世代にいたっては9割が失われたと言われています。国としてはかなり絶望的な状態に陥り、以後50年以上にわたって国勢が停滞します。

この間、パラグアイは国力を取り戻すため移民の受け入れを始めますが、ボロボロに傷ついた国に移民しようという人は少なく、政策自体あまりうまく機能しなかったようです。日本人に関して言うと1912年にアルゼンチンから一家が移住したという記録がありますが、これは例外中の例外。1919年に日本パラグアイ通商条約が締結されてからも、移民政策ではすでにブラジルが先行していたので、日本からの移民はほぼなかったようです。

 

ところが1932年にボリビアとの戦争(チャコ戦争)が始まりパラグアイの優勢が伝えられると、状況は動き始めます。ブラジルで「移民二分制限法」が施行されたことも影響し、日本政府は1934年に移民のためパラグアイの調査に乗り出します。そして1936年、指導移民というかたちでブラジルから11家族81人がラ・コルメナに移住、同時に日本から校長を赴任させてパラグアイ初の日本語学校も開設されます。

しかし、1941年に太平洋戦争が開戦します。日本とアメリカが戦争状態になると、パラグアイを含む南米の国々はアメリカとの関係を重視し、次々と日本との国交を断絶しました。パラグアイは1945年に日本に対して宣戦布告し、完全な敵国となったため、日本語学校も封鎖され、パラグアイの公立学校になってしまいました。

終戦後、サンフランシスコ講和条約締結後の1953年にパラグアイと日本は国交を再開させます。海外からの引揚者増加で失業問題が深刻化していた日本は、1954年からパラグアイへの移住を再開し、日本政府は各地に移住地を開設していきました。1955年チャベス移住地、1956年フラム移住地(現ラパス移住地)、1961年イグアス移住地、それぞれの移住地には日本語学校も開設されました。その後1963年から日本からの移住者を迎えるようになりましたが、日本が経済成長期に入り移住者は減少、現在に至っています。

 

 

日本文化の“継承”、もしくは“移入”のための日本語教育

パラグアイに限らず、日本人が移民した先には必ず日本語学校が作られてきましたが、これは移民があくまでも一時的な「出稼ぎ」が前提であり、数年後に帰国した際に日本語が話せるようにすることが目的でした。ただ戦後は移民が現地での永住する傾向へと変化していったため、単なる語学習得のためではなく、日本人のアイデンティティを持ち続けるための「文化の継承」としての意味合いが大きくなりました。

このような傾向はとりわけパラグアイにおいて強く、現在でも日本語学校を中心に文化の継承を目的とした日本語教育が続けられています。興味深いことに、日本語学校では教科書として、日本と同じものが使用されています。季節感や風習の違いなど教科書としての難点も指摘されていますが、それ以前に日本の教育に対する信頼が厚く、日本の教育現場と同じ教科書を使うことでより高い教育が行えると考えられているのです。

なお、1993年にはパラグアイ人によって私立学校、その名も「Nihon Gakko(日本学校)」が作られました。パラグアイ人がパラグアイの子どもに日本の文化や伝統を教えているのは、一見不思議な状況に思えますが、日本の教育に対する高い評価をうかがうことができます。

 

変容する日系移民のアイデンティティ

しかし教育現場の外に目を向けると、日々の生活における日本語の用い方、そして日本人としてのアイデンティティについては、過渡期を迎えていることがわかります。

日本の文化継承を大切に考え、子供たちに対して家の中では日本語を話すように教育する家庭は現在も少なくありません。一方で、日本語が分かるにも関わらず、子どもたちとスペイン語で話すという家庭もあります。これは子どもたちをパラグアイの社会に馴染みやすくさせるためで、彼らはスペイン語が第一言語、日本語を第二言語と考えているようです。

また新たに生まれた状況として、「日本語を話す」ということがJICAや出身県等からの支援による日本研修や日本への出稼ぎに繋がるということもあげられます。現在20代〜30代の移民三世にとって、日本語は日本での仕事を見つけるために必要なスキルとなっています。そして彼らはその場に合わせて話す言語を選択するように「日本人」「日系人」「パラグアイ人」というアイデンティティをも使い分けているのです。

【取材日:2017年7月3日】 ※所属は取材当時