沼倉先生、写真2019年5月31日(金)、I-siteなんばにある「まちライブラリー@大阪府立大学」でアカデミックカフェが開催されました。カタリストは、大阪府立大学大学院 工学研究科の沼倉宏教授。学術情報センター図書館長も務められています。テーマは「日本語で学問するということ 英語一強時代、『現地語』による文化の未来は?」です。

沼倉先生がこのテーマを考えるきっかけになったのが、小説家・水村美苗氏の「日本語が亡びるとき」。

「日本語が亡びるとき」画像

この本によると、“英語が普遍語のスタンダードになりつつある”中で、英語が普遍語として世界を席巻すれば、人々は自分の表現したものが読まれ評価されるためには、母国語で書かずに英語で書くようになります。すると次第に価値のあるものは英語で書かれていることになり、やがて人々は日本語で書かれたものを読もうともしないのではないか、と本の中で水村氏は危惧します。

これは日本語に限った話ではありません。理工系の学術研究の世界では英語が共通語になって久しく、国際学会はもちろん、論文は国内学会の発行する論文誌でもほとんど英語。先端専門教育では、ハイレベルになるほど英語で行っています。日本の場合、翻訳文化の伝統もあって、あらゆる分野で日本語の教科書があり、世界的水準の学問が可能なのが現状です。日本の中で、日本語は万能な言語として使われていますが、世界の中で単なる一つのマイナーな地域語に成り下がる日が来るかもしれません。

普遍語は今、英語一強の時代ですが、“言葉が通じないから殺し合う”などの問題が発生した場合、世界共通言語があるというのは素晴らしいこと。しかし“地球の人たちがみんな英語しか喋れないとすれば、それでいいのか?”という問題意識を持つことが大切です。

アカデミックカフェの様子、写真

また人が自分の考えを頭の中で思考する時は、自らが話す言語で考えます。つまりどのような性格の言語であるかによって、思考の表現が左右されます。それも多様性の一つ。しかし普遍語が英語一強の時代では、世界の人々が一つの考え方しかしないとも考えられます。そういう状況は非常に危険で、言語の多様性を保つことが重要だという考えもあります。

「日本でも外国人を受け入れ、多言語社会になりつつあります。そこで日本語が母国語でない人にも通じるような優しい日本語を作らなければならない。そういう考えもある一方で世界に目を向けると、教育を担う普遍語として英語が席巻しつつあるという図式があります。“それは英語であり続けるのか?”という問題意識を皆さんで共有してもらえればと思います」と先生は最後に締めくくりました。

<先生のおすすめ本>
『日本語が亡びるとき』(筑摩書房/水村美苗 著)
http://www.chikumashobo.co.jp/product/9784480432667/

初年次ゼミナールの受講生、写真

<補足>
今回のテーマは、2018年度前期に府立大の授業「初年次ゼミナール」で取り上げられたものです。講義中盤からはその時の受講生、西村朱音さん(現代システム科学域2年)と越智優花さん(生命環境科学域2年)が「母国語で学問すること」をテーマに、思考と言語の関係性、言語と国民性、日本人の言語行動などについて、教育の視点から発表しました。

なかでも興味深かったのが、思考と言語の関係について。バイリンガルと言語の関係や、言語と思考の関係について、身近にいるバイリンガルの方々から体験談を集めたところ、話している言語によって自分のキャラが違うこと。会話している相手や考えている事柄、またその時の状況によって思考言語が異なるということがわかりました。そしてさらに調べてみると、このような考えにたどり着きました。

“言語と思考は互いに結びついていて、世界を知覚する際に、私たちは自分が使う言語の影響を受けている”(ジョージ・オーウェル)

これを裏付ける研究が海外のサイエンス誌にありました。バイリンガルの行動と周りの世界の捉え方は、その瞬間に話している言語に依存しており、使用する言語を変えると、同時に行動や物事の捉え方も変化させるというものです。以上から、思考と言語は密接に関係していて、言語を使うことはそれまでその言語を使ってきた人たちからも影響を受けることになり、つまりは言語に国民性が出ていると考えられます。

次に日本人の言語行動についての考察。発言の積極性を褒める言葉が少ない日本語を母語とし、控えめな心理がある日本人にとって、日本人特有の“語らず、表さないこと”が美徳化される意識が、成長するにつれて潜在的に身につき、日本人が日本語で学問する際、積極的に発言することが少なくなっていると言えるのでは?とお話いただきました。

最後に母国語で学問することについての結論として、その国がどうなっていきたいかという方針が色濃く反映されると言えます。もし政府がグローバル化を望むなら、外国についての学習をカリキュラムに組み込むはずですし、自身の国を発展させようと望むなら、自国語だけで学問するはず。

とはいえ、一概にも言えないのは、グローバル化をめざしつつも高等教育まで自国語で進める国もあります。十分に発展した「国語」を使っているなら、学問自体に英語は必要ありません。それに時代背景や政治状況も影響します。これらの要因から、日本語は言語的に精度が高く、なおかつ日本語と英語は言語的に遠いので、現状に至っていると考えることができます。

集合写真

(学生発表、参加者からの質問を受けて、沼倉先生の言葉)
“キャラが変わる”ほどではないですが、初めて外国に出かけて国際学会で発表した時のこと。科学英語しか知らないので、英語でのへりくだり方を表現できない。そうすると自然に対等に喋ってしまうんです。国内の学会だと、こういう言い方すると不味いなどと萎縮するのですが、外国の先生方とはそういう話し方ができると経験しました。その時、日本社会の縛りの中で生きているというのは、こういうことなんだなとわかりました。

外国の国際会議では青天井の中で何でもできる、というイメージ。研究者はみんなそうです。普段一生懸命に研究して、時々、学会に行ってお話する。このステージの上で「すごいな」と言ってもらえるのと、それに加えて、全然しがらみがなく対等な感じで話ができる。風通しの良さをすごく感じます。

そのように英語を使うことによって、この地球に生まれて一度だけの人生で、新しい経験ができてよかった。マルチリンガルという経験は、ぜひ多くの人に経験して欲しいと思っています。

 

【取材日:2019年5月31日】※所属は取材当時