2019年10 月23日(金)I-siteなんばにある「まちライブラリー@大阪府立大学」でアカデミックカフェが開催されました。カタリストは大阪府立大学 人間社会システム科学研究科(臨床心理学分野)の総田純次教授。テーマは「フロイトの生涯と思想―精神分析の幕開け―」です。

総田純次先生

現在、世の中には多くの心理療法が溢れていますが、その原点に位置するのは今から約100年前にウィーンの開業医だったジークムント・フロイトが始めた精神分析。心理療法の源泉というばかりでなく、その最右翼に位置する深層心理学として、今日に至るまで臨床心理学に新しい概念や理論、技法を提供し続けています。今回のアカデミックカフェでは、ユダヤ人としての境遇をバネとして、ナチスに追われて亡命したイギリスで亡くなるまで展開し続けたフロイトの思想の生成と発展を辿りました。

フロイトにおける精神分析の第1ステップは著作『夢解釈』(1900)。自身の夢分析を通じて「無意識の意味論」を確立しました。夢の分析・自己分析は1895年頃より開始。特に1896年の父親の死去以降、親友の耳鼻科医フリースとの交友を背景に進められました。フロイトはこの過程でエディプスコンプレックス(男子が母親に性愛感情を抱き、父親に嫉妬する無意識の葛藤感情)を見出し、また「遮蔽記憶」の発見により単純な外傷説に疑問を抱きます。

第2ステップは「転移の発見」。1901年の夢解釈の技法を適応したのに中断した患者・ドーラの症例で、中断の原因として分析家に対する転移感情の分析の重要性に気づきました。そして第3ステップは「性に関する3つの論文」。欲動および心の体制の発達論、欲動という概念の導入が挙げられます。芸術や文化論への臨床的知の応用もこの時期でした。

当日の様子1910年代は約20年にもおよぶフロイトの努力が集大成される時期。文化・芸術へのさらに深い応用の他、メタサイコロジー(心の仕組みの理論化)という形で理論的体系を図ったが挫折。後半には「狼男」やうつ病論を通じ、1920年代における大掛かりな理論再編の準備を行います。

1920年の『快原理の彼岸』発表を皮切りに、フロイトは大幅な理論改変を行いました。

これまでフロイトは、心の動きを「夢解釈」で確立した欲望充足の傾向とそれを禁止する文化的働きの対立軸で読み解いてきましたが、人間の生そのものに内在する自己破壊傾向を想定するようになります。また夢の意味にも願望充足だけではなく、破壊の反復と制御の試みを認めるようになります。

総田純次先生

理論再編の流れで『自我とエス』(1923)はとりわけ要の位置を占めると先生はおっしゃいます。両親とのエディプス関係の解消が心の中に超自我(=良心)を形成するという議論を打ち立てました。これによってエディプスコンプレックスの概念は「夢解釈」の時期の「抑圧されるもの」という位置から、むしろ「心を組織化するもの」という位置へ反転しています。

こうした心の動きは、欲望を司るエス(イド)と良心の禁止機能や理想像を取り込んだ超自我との対立を軸に、それを調停する自我の働きで読み解くことができます。同時に超自我形成という心の分化や人間関係の範型づくりが両親との関係の内在化に基づくという議論はフロイト以降、特に英国で発展する対象関係論の基礎となっています。第一次世界大戦の敗戦によるオーストリア帝国解体、娘ゾフィーや姪の死、フロイト自身の上顎癌の羅患など、彼にとって困難が続く時期でもありましたが、自身の理論を改変してしまうところがフロイトの凄さであると先生は評しました。

参加者からは『モーゼと一神教』という最後の作品についての発言がありました。先生は、理論的には「トーテムとタブー」と同じく、個人心理と集団心理の架橋を図る論文と説明していましたが、同時に参加者のコメントにあるように、ナチスのウィーン侵攻とフロイト一家の英国への亡命という状況で、ユダヤ民族のアイデンティティを問う作品を書いたということには感慨深いものがあると語っていました。ここで時間が一杯になりましたが、心理学に興味のある方や、精神科に勤める方たちにとって、フロイトの足跡をたどった濃密な時間は何よりの贈り物になったはずです。

参加した皆さんで集合写真

 

【取材日:2019年10月23日】※所属は取材当時